京都の街なかを散歩していると、マンションの一角に下の写真のようなプレートがあるのを見つけました。
 

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清酒岩竹」とあります。
場所は御幸町通二条上る達磨町。
ネットで検索してみると、この地に「中井酒造」という酒蔵があったようです。中井酒造が造っていたお酒の銘柄が「岩竹」だったのでしょう。
 
中井酒造が酒造りをしていたころの建物は登録有形文化財として明治村に移転復元され見学できるようになっているようです。
 
京都観光案内「京都日めくり・絶景ウェブログ
 
 
「岩竹」という銘柄のお酒は、伏見にあった「三宝酒造」が造っていたという話はブログなどでも見かけます。
 
 
ただ、中井酒造の「岩竹」という銘柄を「三宝酒造」が受け継いだのかどうか、そのあたりの経緯はよくわかりません。
 
三宝酒造はすでに閉業(2007年)しているはずですが、食べログのレビューを見ていると2019年1月に訪問した東京の居酒屋で「伏見岩竹」を燗で呑んだというものがあって、???となっています。この「伏見岩竹」は三宝酒造とは関係ないのでしょうか。
 
特許庁の特許情報プラットフォーム
で「岩竹」の商標を検索してみたところ・・・ありました。今も「中井酒造」さんの一族の方が権利者になっています。
 
現在では、京都市中心部にある酒蔵は「佐々木酒造」ただ1軒ですが、明治の中頃には130軒ほどもあったそうです。

「酒肆」について

もう少し、「酒肆」について。

古くは(特に中国では)、酒を飲ませる店を「酒舗」「酒肆」などと言ったようです。お客さんに酒や肴を出してその場で飲食させる店だけでなく、単に酒を売るだけの店も含めると思います。

公益財団法人日本漢字能力検定協会の「漢字ペディア」というサイトを見てみます。

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漢字肆


 https://www.kanjipedia.jp/kanji/0002814800


ならべるという意味から、品物を並べて売る店を表すようになったのでしょうか。

用例として「魚肆(ギョシ)」「酒肆(シュシ)」「書肆(ショシ)」などがあげられています。

肆は、数の「四」の代用字としても使われるのですね。一を壱、二を弐、三を参の書くのと同じで「大字(だいじ)」というのだそうです。他の数字との混用や改竄を防ぐために使うとのことですが、現在でもよく使われるのは、壱、弐、参、拾ぐらいでしょうから、肆が四の大字として使われるのは知りませんでした。
と思っていたら、「刀剣乱舞」や「鬼滅の刃」なんかで「その四」というところを「その肆」という表記がされているのに気づきました…


話を戻します。
酒肆を検索してみると、
「酒肆門」、「酒肆春鹿」、「酒肆大関」 といった屋号の居酒屋があるのがわかります。
ちなみに「酒肆門」は大阪・曽根崎の人気店、「酒肆大関」は神戸・三宮の炉端の老舗ですね。気のせいか、有名どころが多いような。

一方、書肆はと言うと、出版社の屋号にもあるようですが、古書店に用いられていることが多いようです。

 

酒肆にしても書肆にしても、現在では一般名詞として日常的に使われることはあまりなく、屋号(固有名詞)の一部として使われることがほとんどではないでしょうか。「この前居酒屋に行ってきた」とは言っても、「この前近くの酒肆に行ってきた」とはあまり言わない(と言うか、伝わらない)でしょうから。

ただ、「酒肆」と表記すると、なにやら風情が感じられる、文化的なおみせのように聞こえます。古くから使われてきた言い方なので、その“重み”のようなものが感じられるのかもしれません。

日本の居酒屋はじめ

日本に居酒屋が誕生したのは江戸時代の寛延年間(1748~51年)なのだそうです。

これは、市中に現在の居酒屋のような形態の店が見られるようになったのが18世紀半ばということですが、日本で一番最初の居酒屋らしきものが文献に現れるのは、なんと奈良時代平城京です。

 

日本の勅撰史書のひとつ「続日本紀」に761年(天平宝字5年)の事件が記載されています。

この年3月に葦原王という皇族が殺人を犯して皇籍を剥奪の上流罪にされたというものですが、その殺人事件が起こった現場が「酒肆」だったのです。

葦原王は天性凶悪な人物でしたが、「酒肆」で知人と喜んで酒を飲んでいたところ突然怒りだし、あろうことか相手を殺してその場で膾にしてしまった、という凄惨な事件です。そのまま逮捕されて本来死罪になるところ、皇族の身分であったためそれを免れ皇族の身分を剥奪(臣籍降下)の上、家族もろとも種子島に流された、というのが事件の顛末です。

皇族の身分にありながらこんな事件を起こしたことによってのみ後世に名を残すことになるというのもアレですが、この出来事があった故に平城京に「酒肆」があったことが記録されたことになります。続日本紀の編纂者もこれは意図していなかったと思いますが。

 

さて、「肆」は「店」という意味。これに酒がついて「酒肆」となると、「酒を売る店。また、酒を飲ませる店。さかや。」を指します(大辞泉)。

 

「肆」という字は今ではあまり使われませんが、「酒肆」のほかに「書肆」なども用いられ、「居酒屋」や「本屋」の屋号に用いられているのはたまに見かけますね。

もともと中国で酒の飲ませる店を「酒肆」と言っていたようで、李白漢詩にも出てきます。これが現在の日本で見られるような「居酒屋」のような店を指しているのかどうか定かではありませんが、「居酒屋」と訳されていることが多いように思います。

 

続日本紀に「酒肆」の記述が見えるのは奈良時代も後期に移ろうかという頃ですが、その後、「居酒屋」らしきものは文献に現れなくなるようです。

平城京にあったのだから、その後の平安京にもあったのだろうと思いたいところですが、これはわからないというほかありません。

たとえ京都にも「酒肆」があったにせよ、辺りが暗くなってきてからぼちぼち営業を始めて、宮人が仕事帰りにいっぱい、という塩梅ではなかったと思いますけど。